ちゃんとやれ!

副業フリーランサーの飲み屋話

複数の環境に身を置くことで見える自分自身の異常

 こんばんわ、スズキです。

自分にはいくつの顔がありますか。

 

家族用の顔

仕事用の顔

恋人用の顔

友達用の顔

 

いろんな顔がありますよね。

誰と話していても「同じ自分」と言うわけにはいかず、半分はご機嫌取りで、半分は自分の自信の無さで、そのときに適した(と思っている)顔で生活しています。

 

「家庭」という環境と、「職場」という環境は違いますし、言いたいこと、したいこと、自分の立場や立ち居振る舞いも大きく違います。

そうやって「置かれている環境」がいくつもあることによって、自分のポジションを見直したり、周りのことを正確に判断できたりするキッカケになるような。

そんな流れを最近よく感じることがあります。

 

ウチの常識は、社会の非常識

「これって常識だよ、家ではそうしてるもん」

とういうことが「お前の家だけじゃねーの」となることは良くあること。

「味噌汁の具は何が入っているか」とか「カレーには何を入れるか」とか。

「バスタオルは何回使ったら洗うか」とか、それが少々世間とずれていても、笑い話で済む程度のことから、それ以上に炎上してしまうようなことだってある。

 

そういう意味で、色んな立場や環境をつまみ食いしながら、社会とのバランスをとっていくことは、僕の中では「あり」なのだ。

 

 

特定の環境に身を置きたくない。

ある特定の環境に身を置いてしまうと、それしか情報がない。

そこで起きたことが全てとなってしまうので、大きなギャップが生まれても気付かなくなってしまう。

ずっと家にいると、ずっとネットばかりしていると、ずっと会社にいると。

そういった環境でしか見えないもの、それが自分の全てになってしまうのは、大きな問題だと思っている。

 

例えば「ブロガー」という枠でも、いろいろなブロガーがいるし、色んな考え方の人がいる。

例えば「社会人」という枠でも同じ事が言える。

どちらの意見も参考にすべきだし、どちらの意見もシャットアウトせずに聞くべきだと思う。

 

折衷案だらけでブレないのか

それは判断の一つに過ぎないから、全部が全部を取り入れるわけではない。

ここは自分と違う、ここは同じ考え。

違う考えを「知る」ことが、この場合有効と考える。

「取り入れる」ことではなく「知る」こと。

 

今までのコミュニティ外のことを「知る」ことで、「ん~、今までの自分はおかしいかも」と思えることが大事なのだ。

 

 

異常ばかりではない

もちろん異常ばかりではなく、合っててよかった。

この考えが間違ってなかったと気付くこともある。

取捨選択すること、それが自分自身であること。

その瞬間に異常が見えることもあるということだ。

 

一定の環境だけでは、どうしても視野が狭まってしまう。

だからこそ、次の一歩を踏み出すキッカケにも、多くの環境から学ぶべきだと考える。

 

 

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