ちゃんとやれ!

副業フリーランサーの飲み屋話

映画化は情報過多、ただのデブになっただけ。

こんばんわ、スズキです。

「シン・ゴジラ」「君の名は。」どちらも最近の注目の映画ですね。

僕は映画館にほとんど行かない、苦手なんですよ。

 

特に、映画館に行くと時間を拘束される印象が強く、あまり得意ではありません。

それ以外にも、映画が苦手な理由がいくつかあります。

 

 

そもそも映画が嫌い

映画、映画館の良さってなんでしょうか。

  • 素敵なシーン
  • 素敵な音楽
  • 素敵な俳優さん
  • 素敵な脚本
  • 素敵な監督

映画の良いところはたくさんあります。

嫌いとは言いながらも、映画を見ることはありますよ。

 

ただ「漫画を映画化しました」というのは嫌いなんですよ。

満足したことがないんですよね、漫画の映画化って。

特に実写化なんて、全く頭に入ってこないんです。

漫画のままでいてくれたらよかったなぁってね。

そんなことを考えてしまいます。

 

 

1.実写化されると間違い探しをする

実写化された映画のどこが嫌いかと言えば、情報が多すぎるところ。

気になるところがたくさんありすぎて、注意力が散漫になってしまう。

 

ゴジラが破壊している建物は東京タワーだとか、東京都庁だとか。

そうすると、そこに僕の興味が寄っていってしまうわけです。

 

主人公が乗っている車は、20年前のトヨタの車とか。

コカコーラのロゴが古い、アイテムで使っている携帯電話の機種。

本来のストーリーの「オマケ」的な存在のものを見てしまう。

 

それを漫画であれば、アニメであれば、省略してあったりオリジナルであったり。

本当に見せたいモノだけを、クローズアップしていたり。

たとえ、それが似ていなくても、納得できるんですよね。

「ヤマハのバイク」と言われれば、ホンダっぽくてもヤマハのバイクになる。

「ここが大阪」と言われれば、大阪になる。

 

そういう柔軟性が漫画にはあるけれど、実写化されると本物との間違い探しをしてしまう。

見過ごしてきた細かな点が気になって気になってしょうがないんですよ。

 

 

2.キャラクターと俳優

古代ローマが舞台となった「テルマエ・ロマエ」であれば、主人公のルシウスは阿部寛が演じていました。

そうすると、純粋に「ルシウス」として見ることができない。

どこかに阿部寛の要素が入ってくる。

 

このルシウスは、古代ローマの浴場設計士です。

それを日本人の阿部寛が演じると「日本人なのに~~」とか「顔のホリが深いねぇ」とか「三菱東京UFJ銀行のカードローンの人だ」とか。

余分な情報がセットになるんです。

気が散ってしまうんですよね。

 

その主人公を演じている役者さんが有名であればあるほど、オリジナリティがあればあるほど、それが邪魔をしてしまうんです。

 

 

3.自分の想像とのギャップに意気消沈

特に音楽が出てくる漫画、それを映画にするのは最低だと思っています。

のだめカンタービレ、ピアノの森、などなど。

クラシック系なんて、どうやって表現するのでしょうか。

 

漫画の良さは、勝手に妄想できることです。

「空から音符が降ってくる」と書いてあれば、自分の頭の中で音符を降らして、勝手に満足するんです。

こんな感じかな、あんな感じかな。

そうやって、勝手に妄想して、勝手に満足するんですよね。

 

それが、映画になれば、音は音として表現してある。

それって、自分が考えていたようなものだった??

「地面がを揺らすような低音が」と書いてあって、地面が揺れる感覚ってあった??

 

コンサートのシーンが漫画に出てきたとしたら、それはライブなんですよ、漫画の中では。

それが映画になると録音になってしまう。

 

ミスチルがどんなに上手くレコーディングをしても、ライブに行きたいじゃん。

嵐のCDを何回聴いたところで、ライブのパワーってすげーじゃん。

 

そのすごさを漫画では表現していたりするのに、それが音になって目の前に出てきた瞬間、台無しになってしまう。

 

 

4.映像で表現しきれない部分

「ちはやふる」という映画をご存じだろうか。

競技かるたを描いた漫画だったが、いつの間にか実写映画になっていた。

漫画を読んだ人はわかるかと思うが、かるたの札を読み上げる瞬間の空気や、札を瞬時に判断するその様子。

 

そういった空気感は実写では伝わらなかった。

無理なカメラワークもできないし、そこに「人」という形があるから、それ以上は表現できない。

漫画であれば、せめてアニメであれば、好きなように表現できるのに。

その表現できる幅、表現に出てくるギャップがあまりにも受け入れがたい。

 

たとえば「頭文字D」

峠道をかっ飛ばしたり、ドリフトしたり、走り屋の漫画だ。

漫画から伝わってくる緊張感、ドキドキ感、無茶なテクニック。

それは漫画だから伝わってくる。

 

描かれていない部分は、自分たちの頭の中で妄想して補完する。

だから、それがすごく楽しいし、没頭できる。

実写化されると、どうしてもそういったシーンを見てるだけ、、、、となりがちなんだ。

 

 

人間の頭ってすげぇ

かつての映画は1秒間で24コマのフィルムを使っていた。

漫画になると、1秒1コマ、数秒で1コマの絵ってこともありえるだろう。

情報量が少なすぎるんですよ、漫画って。

どうやったらそのシーンとそのシーンがつながるの???なんてことがたくさんある。

 

そういったシーンは、全て頭の中で補完しているのだけれど。

そのシーンを描いて、次のシーンを見ながら頭で埋めていく。

セリフも読んで、情景も思い浮かべて、音楽も流して、主人公の気持ちになったり、あるいは自分自身に重ね合わせてみたり。

そんなことを、人間は頭の中でやっている。

 

周りが見えなくなるくらい引きずり込まれて、いつの間にか虜になっています。

知らない間に声が出ていたり、涙が出ていたり。

そこまで感情を振り回すことができる漫画もすごいけれど、それについてきている「人間の頭」ってすげぇ、ほんとすげぇ。

 

 

妄想の楽しみを奪わないで

なんども頭の中に描くんですよ、そのシーン。

見本となるようなキレイな写真も無ければ、素敵な音楽もない。

セリフも活字で書いてあるだけ、それ以上の感情はのっていない。

だから、それを妄想して頭の中でワールドを作るわけで。

 

スズキワールドの漫画があれば、別の誰かが解釈している漫画もある。

みんな違ってみんないい、だから漫画でどんどん妄想したい。

 

それが写真になると、音になって出てくると、それが大きな目安になってしまう。

そこからなかなか離れることができなくなる。

テルマエ・ロマエのルシウスは、阿部寛のような顔をして、阿部寛のような声になる。

 

たとえそれがアニメだとしても。

声優のインパクトに気持ちが引っ張られていく。

クッキングパパを見ながら、コナン君を思い浮かべてしまう。

目で見るもの、耳で聴くもののパワーって本当にすごいのだ。

 

 

だからそっとしておいて

だからこそ、そっとしておいてほしい。

情報なんて、そんなにいらない。

漫画の情報量だけでも多いと思うのに。

自分の中で処理する時間が欲しい、追いついていかないんだ。

 

どうだろうか「想像するモノ」ってのは長い間、ずーっと愛されるんだよ。

俳句みたいに文字数が制限されているもの。

落語みたいに扇子と手ぬぐいくらいしか出てこないもの。

絵画なんて、それこそ音も鳴らないし、情報が非常に少ない。

 

でもそういったモノのほうが、自分との対話ができる。

どんどん吸収して、過去の経験や知識と結びつけながら自分なりの答えを探してみる。

 

だから、情報量なんて少なくていい。

情報過多なんて、ただのデブだから。

 

情報を削ぎ落として、削ぎ落として、漫画になっている。

だから、お願い、そっとしておいてほしい、たとえベストセラーになっても、そのままがいい。

 

 

 

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ピアノの森(1) (モーニングコミックス)

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