事件、事故が起こったとき、ツイッターで見る意見や、テレビで流れている感想に流されたくない。と思う。
例えば「ブラック企業で働く人」に対して
・ブラック企業なんて最悪だ
と言う人がいる一方で、
・ブラック企業なんかで働く人が悪い
なんて言う人がいる。
全面的に賛成できるわけではないが、どちらも「なるほど」と思ってしまう。
例えば「会社員か、フリーランスか」という問いに対して
・会社員のほうが有利だ
と言う人がいる一方で、
・フリーランスのほうが有利だ
なんていう人がいる。
どちらが自分の意見なのかを表し、それに対しての理由付けをしていくのが一般的だと思う。
が、今の僕は「どっちも正しいんじゃない?」と思ってしまう。
「AともいえるがBともいえる」ということだ
それがたとえ役に立たない意見だとしても、つまらない人間だとしても、AともBともいえることは、僕の中で大事なことだったりする。
役に立たないという軸だとすれば、まさにその通りで、遠くから眺めているだけにすぎない。
でも、それでもいいと思うから、今はAともいえるし、Bともいえる、というスタンスでいる。
何か2つを比べたりするとき、どうしても直感的になりがちだ。
もちろん直感でもいいことだってある。
「メロンが好きか、イチゴが好きか」なんていうのは、どっちでもいいのだ。
それは本人の好みだから。
そうじゃない事件や事故のとき。
本当にAが悪いのか、本当にBが悪いのか。
という裏付けはどこにあるのだろうか。
感情的になっていないか、直感で選んでいないか。
そう思ってしまったときに、AかBかという判断ができなくなった。
目の前のそれを100%知らないうちに、大きな声でAだ!Bだ!とは言えなかった。
日常で得られる情報の中には「たぶん~~」「と予測される」なんていう言葉が目立つ。
その情報自体に、どれだけ信頼性があるのか。
「とても足が速く」と言われたときに、どのくらいのスピードをイメージするのか、人それぞれ違う。
信頼性に、あいまいさ。それが見えるうちは、なかなか判断しづらい自分がいる。
とはいえ、そんなことばかり言っていたら、何も言えなくなってしまうのは承知の上。
先の「メロンとイチゴ」の話だって、品種や糖度、冷えているかジュースになっているか。もちろん条件によって答えは違うだろう。
それも全部ひっくるめて「メロンが好き」「イチゴが好き」なんて言ったりする。ことも分かっている。
とはいえ、今はいろんな面からモノゴトを見ていたい。
「アイツが悪い」と言われていることは、本当に悪いのだろうか。
「コイツが原因だ」と言われていることは、本当に原因なのだろうか。
その裏付け情報が、いまいちはっきりと見えないことが多い。
僕がよく見ているBooks&Appsというサイトに、こんな記事が掲載されていた。
雨宮紫苑さんが書いたこの記事。
とはいえ、この記事が本当に正しいのかどうか、という裏付けはできていない。
彼女がウソの記事を書いている。というわけではない。悪しからず。
ネットニュースの出所を気にしない人が6割いるという。
情報の精度が分からないままに、これはAだ、Bだと言えない。と思う人がいる一方で、何でもかんでも正しい!なんて思う人がいるということだ。
間違った情報を100%信じていたとしたら。
その先に疑う余地がなくなってくる。結果として、間違った情報に踊らされてしまう。
人の言うこと、紹介されているニュース、そういったものを信じないのは、人として残念かもしれない。ある意味で人間不信だ。
とはいえ、いろんな状況を鑑みると、僕はAとかBとは言い切れない。
それがたとえつまらない人間であったとしても、どちらも正しい、AともいえるがBともいえる。という判断をしてしまう。