こんにちわ、スズキ(@acogale)です。
技術が進化し、何でも自分でできるようになった。
自分の手元で物事が解決できるようになった。
パソコンやスマホを通して、簡単に解決できるようになった。
仕事、趣味、そういったものが多岐にわたり、選択肢が増えた。
何でも自分でできるようになり、面倒なコミュニティに属さなくてもよくなった。
結果、誰かにモノを頼むことが少なくなった。
家族にしろ友人にしろ。
全ては自分で解決できる。
何かをお願いするとすれば、それはビジネスの付き合いで、そこにはコストが発生する。
「これを売ってください」
「はい、150円です」
「駅までお願いしたいのですが」
「はい、1,240円です」
お金を介してでないと、お願いができなくなる。
特に困らないんですよね、人に頼らなくても。
面倒な貸し借りもなく、すっきりとした人間関係でいられる。
それって魅力的なコトなんですけど。
でも、本当にそれでいいのだろうか、とも思うわけです。
人間関係が難しくなるような気がしまして。
うまい具合にやっておいて。
という感覚が薄れてきますよね。
深い付き合いの人はいいのかもしれないけど。
深い付き合いと言うのも、自ら積極的に作る人付き合いのことで。
置かれた環境や立場に依存するものではなく。
こいつのことが好きで、こいつのことが魅力的だから。
だから、こいつと付き合っていこう。
そういう仲間なら、もう少し安定しやすいのだけれど。
隣近所、上司先輩後輩、そういった関係というのは難しい。
お金で解決するのも、なんとなく気持ち悪い感じがする。
かといって、ギブとテイクのバランスが良いわけでもない。
どこかしら、感覚の中に数値として置き換える何かがあって、そのバランスをみたときに、いろいろと思ってしまうのだろう。
隣の家の人が、この前はみかんをくれた、この間は犬の散歩をしてあげた。
何かうまくバランスがとれればいいものの、そういうわけにもいかないみたいだ。
個になればなるほど、周りとのコミュニケーションの取り方が難しくなるのだろうか。
コミュ障というのも、人見知りというのも、難しい考え方。
人とコミュニケーションを取ることが、好きな人もいれば、嫌いな人もいる。
確かに面倒ですからね。
人にモノを頼むこと、コミュニケーションをとること。
どことなく近い関係にいるような気がしてならない。
混雑した電車から降りるときでさえ、声を掛けない人が多いのは気のせいだろうか。
ちょっと通してほしいということが伝えられない。
大衆食堂に行って、メニューが遠くにあるときに声を掛けられない。
いつの間にか、そういう世の中になっている。
読解率の高いに日本でこんな状態になってしまっていいのか。
技術が進化しすぎると、不便なこともできてくる。
それが、また次のステップへ進化すると、新しい何かが見えてくるのかもしれない。
降りる駅になれば、頭についているランプが光るとか。
そうすれば、周りの人も気付いてくれるだろうし、それを気付かせてくれる装置ができることだろう。
大丈夫、誰かに頼ってもいいんです。~頑張らないからうまくいく! ~
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