「文章を書く」ことに力を入れていると、文章を読む機会も増える。
諸先輩方の文章を読むことで、自分にはない言葉の世界が広がっているから。知らなかった単語を学んだり、心地よい書き方を教えてもらったりする。
説明的な文章、エッセイのような文章、とにかく勢いだけで押し切ったような文章。
それぞれに、自分とは違うものが隠れているので、学ぶことは多い。
句読点の位置、漢字で書くかひらがなで書くか。そういう小さなポイントまでじっくり読むと、その人の人柄や雰囲気も現れてくる。
解像度を高くするということ
その文章から、どこまで読み取るのか、感じ取るのか、というのは読む側の解像度の問題だと思っている。解像度高く読み取れる人は、同じ1つの文章から多くの情報を取り込めるのだ。
それには、興味を持つ、好きになるというようなところから、時代背景や歴史の知識、とにかく多くの文章に接してきたか、などの経験も必要だろう。
知見が溜まってくると、書き出しの1文を見ただけで、誰の文章か分かったりすることもしばしば。それだけ「読むこと」に対しての解像度が高くなってきたのだろう。
当たり前だけれど、適切な解像度が必要になる
仕事で関わっていたり、趣味の世界だったりすると、知らないうちに解像度が上がっていることもある。
スーパーに並んでいる野菜を、建設現場のおじさんが見るとの、板前のおじさんが見るのでは捉え方も精度も違うように。
そこにいる人たちが偏った世界の人たちでないとき、解像度が高いことが足を引っ張ることになるときもある。
なぜなら、専門分野ではない他の人たちは感じることも考えることも粗いからだ。
それは逆もしかり。
気付くこと、気付かないことがたくさんある。
自分自身をコントロールできるように
となれば、大事なのは解像度を高くすることではなく、適切な解像度を備えていることだろう。ただただ解像度を高くする必要はないのだ。
解像度という単語はデジタルカメラやグラフィックデザインの世界で頻繁に目にする。そこでも適切な解像度というものがあり、解像度が高い(=高精細)なものはデータ量が増え、取り扱いにくくなり、解像度が低い(=粗い)ものは大きな印刷物には向かないがデータ量が小さく扱いやすい。
文章を書くことに力を入れてきた僕が、同じ気持ちで今の職場にいると戸惑うことばかりだ。それは自社内、取引先を問わずメールの文面や指示書の文面が曖昧だから。
日本語が間違っていることもしばしば。
文章の裏に隠れているものを読み取ろうとするとき、そこに意図的に隠しているものがなければ、蛇足に過ぎない。
書き手のプロは、裏に意図的に表現や心情を隠しているのだ。チラっと見せるかのように。
そうでない場合は、解像度を低くして、その表現を無視するのが一番だったりする。
基準が無いからこそ、自分で基準を
どれくらいの解像度がいいのか、なんてことは具体的に示すことが難しい。デジカメやグラフィックデザインのように簡単に表せる指標がない。
最後は自分の判断に。「よしなにやっておいて」ということになるだろう。
そのバランスをうまく調整できるようになるには、ベースとして解像度が高くなければいけない。高いものを低くすることはできるけれど、低いものを高いものにすることはできないからだ。
まずは解像度を高くすることを目指して、そのあとは適切な解像度で生きていけるようにしていこう。
そのあたりを自由に操れるようになると、生きやすい毎日が待っているような気がしている。