僕が文章を書くのは2つ
- 自分との戦い
- 誰もが平等
これがあるからこそ、僕は文章を書き続けている。
環境が大事だと言うけれど、文章はどこでも書ける。場所に依存することがない。もしくは、うんとハードルが低い。
野球だとしたら、ボールが投げられる場所がいる。ピアノだとしたら、ピアノも必要だし演奏できる場所もいる。
そう考えてみると、文章を書くということは、場所に依存しにくい。
これは、何か挑戦していく上で非常に大事なこと。
言い訳ができないのだから。
雨が降ろうと、深夜だろうと、文章を書くことはできる。
だから、自分自身が書こうとする気持ち、強い思いさえあればいい。
ペンや鉛筆、紙やパソコンが必要と言うけれど、今の社会や生活の中では容易に手に入るもの。
自分のやる気が如実に表れる。
誰もが平等というのも、書くことへの大きなメリットだ。
文豪にしろ、ウェブライターにしろ、特別なものは使っていない。
お気に入りの万年筆、使いやすいキーボード、それらが無くても、作品そのもののクオリティは変わらない。
カメラマンみたいに道具の性能は関係ない。F1レーサーのようにスポンサーがいなくても書けるのが文章。
開かれたプラットフォーム、誰でも挑戦できる場。
だから、僕は「書いてみよう」と思う。
そこに出てくる「文字」は、自分自身だから。
余分な要素が入らないからこそ、作品は自分自身なのだ。
その「書く」ことをブログに置き換えてみると。
5年前、10年前の自分が、そこにいる。押し入れの中の日記帳を探すわけじゃ無く。
スマホですぐにアクセスできる。
僕が書いたブログ、一番古い記事は、2006年3月。
ツイッターも無かった時代に、ケータイで撮った写真と1行のコメント。
https://www.yaranai.style/2006/03/18/130714/
それは、僕でしかないし、偽ることができない。
昔は書くことが嫌いだった、苦手だった。
国語も嫌いだったし、作文や感想文なんて、何をどうしていいのか、さっぱり分からなかった。
そんな僕がウェブライターをしたり、ブログを書いたり。
20年前の自分にそれを伝えても、全く信じてもらえないだろう。
でも、こうやって文章を書くのは。
誰もが平等にチャレンジできる場所だからだと思っている。
自分を自分で見つめ直さないといけないとき、その仲介役になってくれるのは文章なのだ。
これから先も、ずっと書き続けていくだろう。