「折に触れて」とは「その機会があるたびに」という意味だ。
意味は分かっていたが、自分が使うことは無かった。
「鈴木先生」という中学校を舞台にしたドラマが放送されたのは2011年のこと。そのワンシーンで、メインとなるクラスの保護者の方が「折に触れて~」と言う場面があった。
俳優さんのパワーもあったのだろう。どことなく落ち着いていて、どことなくスマートな印象を「折に触れて」という言葉に感じたのだ。
時間が少しゆっくり流れるような、大切なものを両手で丁寧に扱うような、そんな響きを感じた。
毎日の生活の中でも、過去の惨事や自らの過ち、辛かった出来事を思い出すことがある。偶発的に自分の内から出てきたものもあれば、没後10年、事件から20年、などという特集番組によって、思い出すこともある。
その時に「折に触れて○○するタイミングなんだ」と思うようになった。
日本語の選び方で、感覚が変わるのかどうか、確かなことは言えないが。
いつもより背筋を伸ばして、正面からもう一度考える機会をくれるのは「折に触れて~」だからだと思う。
過去を引きずってもしょうがない。過去を返ることはできない。過去にしがみついてもしょうがない。
とにかく生きるためには前を向いてあるかなければいけない。
一方で、全てのことは歴史から学ぶことができる。歴史を制するものが一番だ。などと言われることだってある。
「過去」だと軽視され、「歴史」だと重要視されるのだ。どちらも今の時点より前のことであるには変わりないのに。
過去にしがみつくのではなく、過去の時点に丁寧に戻ってあげられること。「あのときは辛かったんだね」などと気持ちの整理をつけていくとしたら。
「折に触れて」思い出す機会を、丁寧に丁寧に活用したいもの。
あのとき、こんなことがあったな。今は全く違うものになってしまった。
過去を振り返ることで、スピードは遅くなってしまう。停滞してしまうかもしれない。
が、それはプルバックミニカーのように、加速する未来が待っていることだってある。
ジャンプするときだって、しゃがまないと飛べないし、大きく息を吸うときだって吐ききらないといけない。
未来で加速するなら、少し過去に戻ることも大事なのかもしれない。
やみくもに何かをするのではなく、「折に触れて」のタイミングを生かして。気持ちをニュートラルにしていきたいのだ。
言葉のニュアンスの違い。それによる印象の違い。
折に触れて、このことを意識していきたいと思うのだ。