宮森先生のつぶやき
ネットでキャラ作りしてる人見てるとマジで大変だろうなとおもう。
— 宮森はやと(みやも) (@Miyamo_H) 2016年4月28日
自分をさらけ出すことが未来ですよ。
キャラ作りしてもいずれメッキ剥がれる。
そうできれば苦労しない。
苦労というと語弊があるかもしれないが、それがうまくできるなら悩みも減っていくことと思う。
キャラ作りというより、偏った常識や正義に囚われているんだろうな。
たぶんね、僕の人生のどこかに大きな後悔があるんだろう。
それがずっとずっと足かせになっているから、進むことができない。
それが何か分かればいいんだけれど、人間関係なのか、仕事のことなのか、お金のことなのか、その辺りはよく分からない。
これはネットに限ったことではなく、私生活でも同じことだ。
家族用のキャラクターがあったり、仕事用のキャラクターがあったり、恋人用のキャラクターがあったり。
マナーだとか、人を思いやる気持ちとか、そういったものとリンクはしているものの、キャラクター作りって重要なのかな。
「キャラクター」と「自分勝手」を履き違えないようにしないといけない。
自分勝手に生きればいいんだという認識は避けたい。
これは「個性」という話にもよく似ている。
自分を圧し殺して、周りに合わせて生きていくのも個性の一つだし、キャラクターの一つ。
自分という軸をブラさず、意見していけることも個性、キャラクターの一つ。
相手のことを考えていくと、キャラクター作りも大切だったりするんですよ。
例えば小さな子供相手に「素のオレ」を出したところで、冷たい視線が刺さるだけ。
周りのことを気にするなとか、自分をしっかり持てとか、そういったのとは違う次元の話。
そうやって揚げ足をとるわけじゃないし、屁理屈を言うつもりは無いと言いながらも、ひねくれたことを考えてしまう。
あるラインまでは「マナー」や「思いやり」だろうし、あるラインを越えれば「個性」や「キャラクター」になるんだろう。
人間、どこかで二律背反というのか、正反対なモノが共存していると思う。
元気で頑張っている人は、どこかに深い悲しみがあってそれを打ち消す為に頑張っている。
そんな気がしてならないので、どこかでキャラ作りは必要。
けれども、キャラ作りがゴールになるような、キャラクターは必要ない。
キャラ作りは手段の一つであって「元気キャラ」を演じていたら「元気になるかなぁ」と。
元気になったら、こんな自分になれるかな、と考えていくものと思う。
何についても反論しているスズキだけれども、反論することがゴールというわけではない。
反論することで、改めてその人が言いたい「本質」を見極めたり、自分の中の考えをまとめたりしている。
その人が主張することのどこかに、自分に響くポイントがあると思うから。
どこかで他人のことは「生意気言ってるんじゃないよ」と思っている。
基本的に他人には興味がない。
でもね、そんな考えがあっても、覆すことができない良い意見があったり、気になってしょうがない存在の人ができたりするわけです。
斜に構えるキャラクターで、俯瞰的に物事を見たりするわけです。
目的のある「キャラ作り」なら僕は受け入れてみようかと思ったりね。
大きく自分を右に左に振ってみることで、新しい発見があるんだよ。
結論「キャラ作りが目的になってはダメ」
ではでは
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