こんばんわ、スズキです。
昨日の記事でも書きましたが、最近の労働環境には様々な問題があるようです。
さて、そんな時にツイッターなどで見る意見。
「仕事なんて合わなければ辞めればいい」
というのは、どこまで信用してよいのでしょうか。
尖った意見に惑わされるな
そこに書いてあることを、額面通り100%受け取ってはいけない。
本当に、仕事が合わなければ辞めていいものなのか。
僕の考えとして、それはノーだ。
ピッタリ合う仕事があるのか。
そもそも、ピッタリ合う仕事なんて無い。
どこかで我慢していたり、窮屈な思いをしている。
それは「社会」という場においての勝手なルールや習慣もある。
ある程度、常識的なことでも合わないと思ったら辞めてしまっていいのだろうか。
朝、出社したら上司から「おはよう」と挨拶される。
自分は、そんなこと気にしない。
そうすると、それに対して「ちゃんと挨拶をしろよ」と言われる。
気にくわない、始業時間前なのに、オレには合わない、辞めてやる。
なーんて、考えは極端だろうが、「合わなければ辞めればいい」という意見を鵜呑みにすると、こういった結果になる。
自分のルールで生きていくことの難しさ。
辞めてしまった人はどうするのだろうか。
莫大な資産や、とてつもない運がなければ、ふらふらして生きていくのは難しい。
ということは、どこかでお金稼ぎをしないといけない。
が、会社という仕組みが合っていない場合、独立したり自営業をしたりする。
自分だけで、自分一人だけでお金を生み出すことは難しい。
取引先やお客様という存在がいる。
そこにまで、自分の思い、価値観、やり方を浸透させるとしたら、とんでもないカリスマ性や、その人の素晴らしい素質が必要なのではないだろうか。
好きなときに営業しているお店。
合わない客には帰ってもらう姿勢。
それを納得させるだけのレベルが無ければ商売にならないだろう。
そうでなければ、結局「誰か」の「何か」に合わせなければならない。
我慢と、手抜きは違う
我慢しなければいけないときもある。
自分に合わないと思っても我慢しなければいけないときがある。
その山を乗り越えたら、一つ上のステップに上がることができる。
自分のレベルが上がったら、また違った見方や意見が出てくるだろう。
昔は「3年は我慢しろ」と言われた。
確かに3年後の自分は、入社当初の考えとは随分と変わっていたのだ。
これを「洗脳」と呼ぶのかもしれないが。
社会の厳しさやルールを、考え直すことができた。
「合わない」ということが、ただの手抜きであれば、その人のこれからが不安で仕方が無い。
考えも無く「やりたくない」から「合わない」と判断するのは、浅はかなのではないだろうか。
何事もバランスが必要。
確かに「おかしい」「間違っている」ということからは、逃げるのも手段。
無理に合わせて自分が壊れてしまってはいけない。
だからといって、何を基準に「合わない」「辞めよう」と思うのか、それを具体的にしておかないといけない。
「逃げることは悪」「逃げることはダサい」と思っている人は、「逃げる」という行動をする閾値が低いのだろう。
周りから「もう辞めたらいいじゃん」「逃げるのも一つの手だよ」と言われる人は、「逃げる」という行動をする閾値が高いのだろう。
具体的に、何がどうなったら「逃げよう」と思っていいのか。
そのちょうどいいレベルはどれくらいか、ということを考えておかなければいけない。
額面通りの話しではない。
逃げずに頑張って、人より何倍も頑張って、結果を勝ち取る人もいる。
逃げずに頑張って、自分が壊れてしまう人もいる。
単純に「合わなければ辞めたらいい」という問題ではない。
そのやり方、手法や、周りの環境が間違っていなければ、もう少し頑張ったほうがいいのではないだろうか。
明らかに間違っている環境であれば、すぐにでも辞めることをオススメしたい。
でも、それって、その判断って難しい。
終わりを決めておくこと
新しいことに取り組むとき、新しい環境が始まるとき、前向きに突っ走ってしまう。
会社に入るときに「辞めるタイミング」なんて、決めないことが多いのではないか。
ただ、その辞めるタイミングや、デッドラインは決めておいたほうがいい。
それは、定期的に見直すのもありだと思う。
こうなったら、辞める。
残業が○○時間を超えたら。
趣味の○○ができないくらい忙しくなったら。
結婚したら、子供が生まれる前に。
少しずつ見直しながら、軌道修正をしながら、辞めるタイミングを持っておいたほうがいい。
単純に「合わないから」というのは、あまりにも不躾な印象を受ける。
その「合わない」というところを、もっと具体的に分解して示してあげないと。
結局のところ、自分自身を壊してしまうような結果になるのだろう。